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根回しを甘く見ると痛い目にあうよ [日本人論]

僕が知っている某先生は西日本で最高峰といわれている大学で教授をしていた。学会の会長などを歴任し、その業界ではまさに日本を代表する人物であった。はたから見ていても彼には飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあった。

そんな彼ではあったが、定年に達する前に大学を追い出されてしまったそうだ。いったん教授になった人がその職を追われるというのは相当なことだ。彼自身は事前に危険を察知し再就職先を見つけていたようだが、残された研究室の人たちは路頭に迷っていたという。

僕もちょっと関わっていた業界なので、事件後いろいろな噂を聞いたが、結局のところ大学の中枢部と折り合いが悪くなったというのが追い出された理由のようだ。具体的にどのような経緯があって折り合いが悪くなったのか詳しくは知らないが、僕にはひとつ思い当たるフシがある。

彼が学会のシンポジウムで座長をしていたときのことである。ある事柄について各大学内での改革をどのように進めていくかという質問がでたとき、彼はきっぱりこう言い放った「私は教授会において何かを提案するとき根回しを一切しません。必要ないからです。意思決定は迅速に行うべきです。」

彼は職業人・研究者としてのトレーニングアメリカで受けたそうだ。彼の立ち振る舞いや発言は明らかにアメリカの大学教授や企業のCEOを意識したものだった。学会に参加していた人たちはそんな彼を「かっこいいなあ。一度でいいからそんなこと言ってみたいものだなあ」と80%の羨望と20%のやっかみをもって見ていたものだった。

結局彼のアメリカンなやり方は日本の象牙の塔では通用しなかったということのようだ。通用しなかったのみならず、自らの居場所すら奪う結果になってしまった。これはたいへん不幸なことである。

「根回し」というのは日本における集団の意思決定に必要不可欠な要素であり、「甘え」同様に欧米の人類学者が日本文化を分析する際にキーとなる概念である。

全員が一箇所に集まって議論をつくすことで集団としての意思決定を行う欧米のやり方に対し、日本では事前に個別交渉を行って一人一人から合意を取り付けておき、全員が集まった時にはその議題はただ承認を受けるだけの状態になっている。この事前の個別交渉の過程を「根回し」と呼ぶ。

根回しはだいたいにおいて飲み屋や喫茶店などで行われ、これを行わずに何らかの議題を会議に持ち込むと「聞いてないぞ!」といって会議の参加者の怒りを買うことが多い。逆に言うと、「聞いてないぞ!」と言って怒られたときは、根回しが足りなかったからだと思ってまず間違いない。議題が重要であればあるほど「根回し」の必要性も増大する。つまりそれだけ大事な行為だということである。

僕が日本の大学で博士号を取ったときも、やはりこの「根回し」が必要だった。学位審査会が行われる数週間前に博士論文の原稿を抱え5名いる審査委員全員に内容を説明して回った。同じ説明を5回やるのである。そして学位審査会の当日にはこの論文は既に「パスしたもの」となっており、形だけのプレゼンテーションと質疑応答が行われる。その大学では根回しをやらないで学位審査を切り抜けた人間は過去に一人もいない。

日本社会で行きぬく上で「根回し」を上手にやることは必要不可欠な要素である。「根回し」が良いとか悪いとかいう議論は僕にとってほとんど意味が無い。なぜならそれが正しいかどうかを判断する価値基準がこの世には存在していないからである。日本社会は昔からこのやり方で意思決定をしてきたわけで、多少の時代の変遷に伴う「ゆらぎ」はあるにせよ、未だに根強く残っていることは厳然たる事実である。欧米主導のグローバリゼーションに巻き込まれている日本社会であるが、こういう文化の深層にある要素というのは不変である。少なくとも100年くらいの単位では変わらない。

文化相対主義の立場から言えば、欧米的なやり方が正しいという根拠はこの「根回し」が正しいという根拠と同様に存在しない。時と場合と場所によってどちらがより適しているかが決まる。「根回し文化」の日本社会において欧米的な意思決定方法をゴリ押しすれば、身を滅ぼす結果になってもなんの不思議もない。文化と文化が衝突したとき、勝つのはより多くの人たちが深層心理のレベルで共感できるほうであり、日本社会においてはそれは当然日本文化だからだ。

欧米的なやり方は多くの日本人にとって見た目では「かっこいい」と映るが、そのことと深層心理のレベルでの「共感」とは全く別物であることを忘れてはならない。

つまるところまたしてもDon't underestimate local cultureということである。


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Bacupile

 白欧主義かなんだか分かりませんが、「アメリカの大学教授や企業のCOEを意識したもの」と言うものは絶対的に正しいものだと言う思い込みがありました。体験された今回の人物が日本ではそのような扱いを受けるとは思いもよりませんでいた。かなりショックです。
by Bacupile (2005-11-20 00:32) 

gutta

読んでいる最中頷きまくりでした。日本でのそういった世渡りが出来なさそうだな、と感じる方々はアメリカに留まって日本に帰ることを考えないようです。
by gutta (2005-11-20 01:20) 

ちくりん

「根回し」が日本社会に不可欠な行動であることは間違いないよね。問題なのは、その結果、意思決定の場であるはずの取締役会や教授会が形骸化し、全員での実質的な議論が行われないこと。まあ、「必要悪」なんだろうね。
前いた会社で、既に他への根回しが済んでいると勘違いして何も読まずに稟議書に判を押し、あとになって「こんなことを認めた覚えはない!」と騒いでいた役員がおりました。
by ちくりん (2005-11-20 01:20) 

ナガサキ

久しぶりにコメントさせていただきます。

「根回し」を文化として捉えたとき、西欧的な価値観(文化)との優劣を定める根拠がない、というご意見にはっとさせられました。確かに土台作りという意味では否定する根拠はないからです。

しかし同時に、やはり根回しと言うのはお金(賄賂)に結びつきやすいから日本でも(表層的であれ)拒否感を抱く人が多いのではないかな、と思いました。
包み隠されてはいますが、事実としてお金の流れが議題の決議に影響を与える場は地域・文化によらず存在しているでしょうし、存在し続けるでしょう。その意味でここに善悪を持ち込むのは不可能だとも思いますが…

僕は自分が学問を志す一人としては学問の場では特に、事前説明をしてまわると言う意味での「根回し」はむしろ歓迎ですが、教授陣に媚びを売る場であったり、研究の成果以上に評価に関わるものが動く場として「根回し」が存在してほしくないと願います。

やはり欧米は純粋な能力主義が主流で、日本では予定調和が重視されていると言うことでしょうか。有意義な会議は日本には存在しないのかもしれません。
by ナガサキ (2005-11-20 01:32) 

KDN

予定調和と片付けられるものでしょうか?
根回しは有意義じゃないですか?
例えば英国の議論の場では手持ちの知識がその一瞬の討論でどれだけ切り札として使えるかで評価が決まりますが
それはあくまで多くの中の一つの能力ではないですかね。
しょちょうさんと同じく5人の審査委員を回りましたが
数日後にメールでとか、面白い意見をもらえましたよ。
媚びはもちろん売りたくないですし賄賂は莫迦ですが、ある事項について考える時間を与えるという意味での「根回し」には賛成です。結果を瞬時に求める手法は、欧州的というよりはむしろ、米国的な即物信仰を感じます。ギリシャ人がサロンで議論していたと言ってもそれは、長年の議論を集約して本にしているんでしょうしね。
by KDN (2005-11-20 10:09) 

チョムプー

ふむふむ。根回しをするために何人かの方にお話して、さらにその方たちがその件について、自分たちのテリトリーの方々に根回しする・・・というふうに、根っこのように広がっていくという、高度な?根回し方法もありまする。
私はわりとやりつけて慣れている方ですが、いい方面でいくと、根回しにまわった方々からさらなる有益な情報を個々に得られるということもありますね。
この根回しは、いきなり会議の場で言われても、「今そんなこと言われてもこっちもどう言っていいかわからないよーー。考える時間くれてないと!」という議論べたの日本の風土に合っている形かと。私も考えるの遅いほうで、「あのときああいえばよかった!」とあとで後悔するほうだから。
by チョムプー (2005-11-20 10:16) 

mu-taro

自分自身、意識的にも無意識的にも、「根回し」行動をしているので、やはりわたしは日本人なのだと、実感しますわ。
いろいろなレベルの根回しが存在しますが、時々、正直、無性になんだかくだらないと思えてくることが無きにしもあらず。
by mu-taro (2005-11-20 11:08) 

しょちょう

Bacupileさん
非常によくある話ですよ。留学経験が必ずしもその後の日本での社会的成功に結びつくとは限らず、むしろマイナスに作用することも多々あります。帰国した後は特に「文化に優劣はない」という事実をかみしめながら生活する必要があります。

ぐったさん
そういうことでアメリカに残ってずっとやられる方もたくさんいるのでしょうね。こればっかりはどうしようもないのでしょうね、相性の問題ですから。
by しょちょう (2005-11-20 17:06) 

しょちょう

ちくりん
前いた某社は大変そうだったよね。ああいう根回しはちょっとやりすぎじゃないかという気はするね。程度をわきまえて根回しするぶんにはいいと思うけど。極端な例を挙げるときりがないよね。

ナガサキさん
ずいぶん悲観的ですね。笑
お金と根回しとは基本的に別問題だと思います。それから欧米は残念ながら純粋な能力主義ではありません。日本以上にコネが物を言います。コネを引き寄せるのも実力だといえば、まあ実力主義なのかもしれませんが。
この記事では意思決定の方法論について論じているのですが、日本的なやり方に問題があるのと全く同様に欧米的なやり方にも問題があります。繰り返しになりますが、僕はどちらが正しいとか間違っているとかいうのは無いと思っています。両者はただ単に「違う」のです。

KDNさん
KDNさんも審査委員めぐりしたんですね。あれ結構大変ですよね。5人分アポを取ってそれぞれ1時間くらいみっちり説明してと、もうそれだけで疲労しましたよ。でもまあ、時間をかけて合意を形成していく「根回し」というやり方は日本人のメンタリティーにあっているような気はします。時と場合にもよりますけどね。

チョムプーさん
それはかなり高度なテクニックですね。そういうのを自由自在に出せるようになればもうどこに出しても恥ずかしくない一人前の日本の大人ですね。笑
タイにも根回しってあるんでしょうかね?今度タイ人に聞いてみます。

むーたろう
同様に、僕は欧米的なディスカッションによる意思決定をくだらなく感じることもありますよ。まあどっちもどっちです。
by しょちょう (2005-11-20 17:56) 

usagi

なるほどー。実は私は今の会社&立場において、根回し的なことを頻繁に行います。全然バックグラウンドが違う組織の人たちのコンセンサスを取る時、会議でもできますがそれ以前に垣根を取り払っておくと物事がスムースに運びます。更に相手が私の為に何か決定を下さなければ行けない場合、事前に個別説明&交渉を行う事で、相手の不安を取り除く事もできます。仕事となると、どうやって目標を達成するかが1番で、それが根回しでも会議での議論の結果でもどちらでもいいのですが、私の場合は、根回しというか綿密な個別ネットワーキングを通じて円滑に仕事を進めていることが多いです。
by usagi (2005-11-20 22:13) 

しょちょう

usagiさん
それはすごい!外国の企業で根回しを多用するなんて、日本人の文化特性を生かした仕事の仕方ですねー。やはり国際的な場で活躍される日本人って、日本人であることのメリットを生かして仕事している方が多いですよね。いやー、素晴らしいです。根回しって、案外、世界に通用する技術なのではないかと思ってしまいます。
by しょちょう (2005-11-21 18:40) 

三平太

>>欧米的なやり方は多くの日本人にとって見た目では「かっこいい」と映る

ずっと疑問なんですけど、なぜ見た目にかっこいいと映るのでしょうね。日本人が日本人の立場で人類学的アプローチを用いて「客観的に」こういうことについて書いた本というのはありませんか?
by 三平太 (2005-11-21 20:45) 

なんだか、一つ気持ちがすっきりしたような気がします。
若い頃、大会社でやたらと「根回し、根回し」と言っている上司が居て、なんだか滑稽に見えて居ました。そのせいか、根回しはただの無駄な日本的慣習に思え居ていて、その割りに今自分が会議の席でいきなり会社の決定事項を聞かされると「そんなの聞いてないよ」と思う自分にもぶち当たるのです。
日本のシステムは日本の長い歴史と文化を背景に培われてきたものなので、日本の社会にとって意味があるから残っているのです。ただ、日本人の謙遜の行き過ぎたカタチでの「卑屈さ」故か、日本は変だという外からの言葉につい「そうかな?」と思ってしまうのです。
「甘え」にせよ「予定調和」にせよこの「根回し」にせよ、その習慣があることにはそれなりに意味があり、良いとか悪いとかの問題ではない。
自分の中の矛盾した感情になんだか折り合いが付いた気がします。
この日本の慣習を頭から批判されてうまく説明できなくて凹んでいました。今度はもっとうまく伝えられるかもしれません。
by (2005-11-21 21:31) 

しょちょう

三平太さん
その話題はおそらく学問的にはタブーになってるのではないかと思います。欧米人がそれを表立って取り上げることは「帝国主義的で傲慢な行為」なのでしないでしょうし、日本人はあまり自分の内面のコンプレックスを学問的対象にはしないでしょうから。

あにすさん
たしかに、「根回し」「甘え」「タテ型社会」など日本文化のキー・コンセプトというのはすべてネガティブな意味合いを含んだものばかりです。一般的な日本人の習性として「自分や身内を蔑む」という行為があります。謙譲語などにもそれは現れています。「これ、うちの愚妻が作ったつまらないものなのですが・・・」と言って贈り物をするのは外国人には奇異に映るようです。
ですから日本人が日本文化に対してネガティブな物言いをするのはある意味、自然なことなのかもしれません。あるいは自分の国に対する無意識でのattachmentが強いがゆえに、自国の文化に対して「甘え」ているのかもしれません。国に対する甘えがなくなると、日本人も案外自分の国を褒めるようになるのかもしれません。以前、この点に関してちょこっと書いたことがあります。
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-08-17
by しょちょう (2005-11-22 01:48) 

夜間飛行者

>根回しは有意義じゃないですか?
>例えば英国の議論の場では手持ちの知識がその一瞬の討論でどれだけ
>切り札として使えるかで評価が決まりますが
>それはあくまで多くの中の一つの能力ではないですかね。

とKDNさんはおっしゃっていて、それに対してしょちょうさんもある程度同意されているようですが、部外者としてはかなり違和感を感じます。
欧米式の論文審議会はどうしても一発勝負っぽくなってリスクもあるけど、
日本式の「根回し」論文審議会なら、事前にじっくり対応もできるし、
審議方法としてすぐれている面もあるよ、
ということをおっしゃっているんですよね?

本当の問題は、日本の「根回し」っていうのが、どこにも明文化されておらず、暗黙の了解になってしまっていることだと思います。
もし、欧米式一発勝負に問題があるなら、5人の教授達と事前に連絡をとって、彼等の意見を元に論文を修正して、最終的に確認のためにみんなで集まって審議会を開く、
みたいな感じで、ちゃんと明文化して、新しい方法を開発すればいい。
それなら、「欧米式の問題点を克服した、新たな審議方法」ということになると思います。

でも、日本の場合、こういうことがすべて「暗黙の了解」になっていて、正式なステップとは見なされていないわけですよね?
だからこそ、「根回し」という多少後ろめたさを伴った言い方がされるわけですよね?
そして、この暗黙の了解に従わない者は、確実に損をするわけです。
その辺がすごくアンフェアな感じがするのです。
正直者がバカを見る、みたいな。

完全な部外者ですので、すごい勘違いをしていたら、どうか勘弁してくださいませ。
by 夜間飛行者 (2005-11-22 07:52) 

しょちょう

夜間飛行者さん
こんにちは。先日はTBしていただきありがとうございました。
さて、いただいたご意見に関してですが、明文化されているかどうかがその文化習慣の善悪を判定する基準になるということですね。残念ながら僕はその点に関して意見を異にします。
本来、「根回し」のような文化習慣というのは、それが文化の深層にあればあるほど明文化されません。当たり前すぎて文章にする必要性を生じないからなのかもしれません。
たとえば日本の法規や会社の規則集などに、「歳が上の人には敬語を使わなければならない。使わなければ著しい社会的制裁が加えられるであろう。」などという文言はどこにも明文化されていません。それはあまりも当たり前だからでしょう。
あるいは欧米のオフィシャルな文書の中に、「会議中に発言しない者は無知であると見なす」などとは書いてありません。そんなことはあちらの文化的コンテクストでは当たり前の暗黙知だからでしょう。
「根回し」も同様だと思います。暗黙知だからこそ強固なsocial normなのです。したがって欧米人は会議では一生懸命発言するし、日本人は一生懸命根回しします。それができない人はそれぞれの社会で脱落していきます。social normというのはそういうものです。
by しょちょう (2005-11-22 22:54) 

夜間飛行者

しょちょうさん、お返事ありがとうございます。
お返事のおかげで、僕がどこに違和感を感じたのか、自分なりに少し明らかになったように思います。

強固な社会規範に従えない者が社会から脱落するのは、事実としてその通りですし、全く同意します。
問題は、これらの社会規範が、健全な形で(つまり、世の中をより良くする方向に)働いているのか、という点です。

強固な社会規範として、「会議で発言しない奴はアホとみなす」(欧米式)v.s.「根回ししないやつは前に進ませない」(日本式)、という感じで対比するとしますよね。
どっちも明文化はされていません。
それでもやっぱり、欧米式の方がフェアで健全だと僕は思うのです。

仕事の実績が全く同じAさんとBさんがいて、会議での発言回数が「Aさん>Bさん」だったら、Aさんを評価するのは当然です。
だって、それ以外に合理的でフェアな評価方法はありませんから。
ここで上司が、俺はAの人柄が好きだからAをとる、なんて言い出したら、こじれまくると思います。誰が好きなんて、人によっていくらでも変わるし。
で、実績が「Aさん>Bさん」だった場合は、いくら会議での発言回数が「Aさん<Bさん」であっても、たぶんAさんの方が評価されますよね?
会議の発言回数は、実績をひっくり返すほどの力はないはずです。
「口は立つけど、実際にはたいしたことしない奴」っていうのは、自然に弾かれると思います。欧米人もそこまでバカじゃない。

一方、日本式の場合、実績とか実力では「Aさん>Bさん」でも、根回しのやり方次第で、評価が逆転することが日常茶飯事ですよね。
その結果、「根回しだけ上手いけど、たいして実力がない奴」っていうのが、どの世界にも蔓延っている。これは事実として否定できないと思います。
そしてこれが、根回しという規範のはっきりと悪い部分だと思います。
根回し下手というハンディをものともしないで上にあがって行く人もたまにいますが、そう言う人は極端に実力のある人だけです。「まあ、あれぐらいできたら、誰も文句言えないよなあ・・・」という。

結論として、
欧米式の社会規範は、人間の実力を評価する場面で、だいたいにおいて合理的に働いていそうだけど、
日本式の社会規範は、うまくいくこともあるが、かなり悪く働いていることも多く、その弊害が無視できないほど大きい
と、僕は考えています。

で、明文化云々の話ですが、
欧米の場合、悪い方向に働きそうな「暗黙の規範」があったら、それを防ぐための規則みたいなものが明文化されることが多いように思うんですよ。
「人種で差別したらダメよ」とか。
日本では逆に、悪い方に働きだした「暗黙の了解」がますますその力を強め、それを止める方策をだれも打ち出すことができない、ということが起こりがちだと思います。

そう言うわけで僕は、日本古来の伝統文化「根回し」を
素直に評価して受け入れることはできないのです。
by 夜間飛行者 (2005-11-23 01:22) 

しょちょう

夜間飛行者さん
ご意見ありがとうございます。欧米の文化がお好みのようですね。それではイギリス式のアーギュメントで続けましょうか。笑
まずは議論を混乱させないためにいままでのやり取りを整理しましょう。僕は夜間飛行者さんが当初「本当の問題(つまり問題の本質)」と規定された「根回しの明文化」について反論を展開しました。明文化の有無は「根回し」の良し悪しを判断する基準には全くならないことを述べました。つまり「問題の本質」に答えを示したわけですが、それに対する夜間飛行者のお返事は「問題の本質」であったはずの「明文化」から逸れた内容になっています。
まず確認ですが、「明文化」の有無が根回しを否定する根拠にはならない、つまり「問題の本質」として夜間飛行者さんが規定されたものは実は問題の本質ではなかったという僕の意見は受け入れられたのですね?この点についての議論は決着がついたということでよろしいですか?決着がついてないのであれば、あくまで「問題の本質」である「明文化」に絞って議論をすべきです。そうでないと枝葉末節な議論になってしまいます。
その点の決着がついたことを受け入れた上で、ご意見の中で述べられている様々な具体的事象、たとえば「日本では根回し上手で実力のない人が蔓延る
けれども、欧米ではディベート上手で中身の薄い人が蔓延らない。日本人はそれくらいアホだが、欧米人はそんなにアホじゃない」といったことに筋の通った反論を展開してもかまいません。反証はいくらでもできます。ただしそれは最初に夜間飛行者さんが規定した「本質」が片付いてからの話になります。
by しょちょう (2005-11-23 22:44) 

夜間飛行者

>まず確認ですが、「明文化」の有無が根回しを否定する根拠にはならない、
>つまり「問題の本質」として夜間飛行者さんが規定されたものは
>実は問題の本質ではなかったという僕の意見は受け入れられたのですね?

そうです、そうです。もちろん100パーセント受け入れています。
というかですね、そもそも最初のコメントの時に、僕自身、自分がどこに違和感を感じているのか分からずに書いているんですよ。
じゃあ、「本当の問題は」みたいな大げさな表現使うなってことですよね。
すんません、筆がすべりました・・・

しょちょうさんのエントリーとKDNさんのコメントを読んで思ったことを箇条書きすると、こんな感じになります。
・欧米式一発勝負の論文審議のやり方はたしかに問題がある。急に聞かれたら、わかっててもへどもどしちゃう人間だっているし(俺なんだけど)。
・でも、それへの対抗馬として、日本式「根回し」を持ってくるのは、どうなんだろう。
・日本式根回しの「良い部分」だけ取り入れることができるんじゃないだろうか。
・例えば、5人の教授達と個別に、事前に連絡をとって、彼等の意見を元に論文を修正して、最終的に確認のためにみんなで集まって審議会を開く、みたいな方法をとればいいんじゃないだろうか。もちろん、ちゃんと明文化して。

つまり、日本式根回しの美点は、別に「暗黙の了解」のままにしておかなくてもうまくすくいだせるんじゃないか?と思ったわけです。
だから、欧米式論文審議の問題点を克服するという文脈で、「やっぱ、暗黙の了解って社会にとって必須だよな」みたいな方向に行っちゃうと、違和感を感じてしまうのです。
僕の言いたかったことは、結局は、これだけです。

どうしてそんなに暗黙の了解を毛嫌いするんだ?と聞かれるかもしれません。
うーん、よく分からないんですが、暗黙の了解が暴走して、悪い方向に向かい、全体として誰のためにもなっていない、というような事例を見て来たからでしょうね。
どうしても、用心深くなってしまう。

お返事の中でちょしょうさんが、「社会の規範というのは、洋の東西を問わず明文化されていないものだよ」と言われて、それはその通りだと思いました。
ただ、同じように「暗黙の了解」だとしても、なんかちょっと違うな、とは思ったのです。
そこで、一例として、「会議で発言しないやつはアホとみなす」規範と「根回ししないやつは前には進ませない」規範を比較してみたのです。
やっぱり、後者の方が、暴走するリスクが大きいんじゃないかなあ・・・ということであんなことを書いてみました。
おかしなところがあれば、もちろん訂正します。

本当に実力のあるやつがのびのびと活躍できる方が、社会としては健全ですよね。(根回しも実力のうち、とかいうのはとりあえずなしで 笑)
根回しなんか、別に日本に限らず、どこでもあるんだと思います。
ただ、アカデミックな世界で、しかも博士論文の審議のような重要な部分で、根回しが必要だということは、初めて伺いました。
暗黙の約束事ににぶいような人間は、学問的には基準をクリアしていたとしても、かなり博士号がとりにくい、ということなんですかね?
だとしたら、うーん・・・ あんまり健全じゃない気がするんですが・・・
by 夜間飛行者 (2005-11-24 00:49) 

しょちょう

夜間飛行者さん
再び貴重なご意見ありがとうございます。
ご意見の要旨をまとめるとこういうことになりそうですね:
1 根回しを明文化したほうが望ましい。なぜなら日本では欧米と違って暗黙の了解にしておくと悪い方向に流れていく傾向があるから
2 人の「実力」を評価する際、欧米のほうが日本より「合理的」である

僕は人類学を多少かじっていて、文化というものを相対的に捉える癖があるので、基本的に「文化には差異はあっても優劣はない」というスタンスでものを考えます。その方向性で上の2つのポイントにお答えします。

1についてですが、日本では暗黙の決まりごとが悪い方向に流れていくのに対し欧米ではそれは起こらない、というのは僕にとっては経験的にも学術的にも初耳の現象です。多くの人が実感を伴って納得できる仮説とは言いたいです。ですからその証拠を示す必要があると思います。もちろん日本に長く住んでいれば根回しの悪い例や極端な例に何度も遭遇するでしょう。しかし欧米社会で同様の現象が起こってない、あるいは日本より起こりにくいという証拠は、僕が知る限り、ないです。具体例でいうと、日本的な感覚でいうところの「実力」があるにも関わらず、シャイで物怖じしやすく表現力が乏しいがゆえにその実力が全く評価されていない人はアメリカやイギリスには掃いて捨てるほどいます。だから小さい頃から必死になって表現力を磨き、ディベート力を身につけようとするのです。何を持って「実力」とするかはその社会ごとに違います。アングロ・サクソンの文化圏では「舌先三寸」が「実力」に含まれ、日本では「根回し力」がそれに含まれます。そこに善悪の判断を持ち込むのはその個人の価値観の問題であり、人類学的にいいますと、戦前に多かったいわゆるmodernとかpre-modern的な文化観に近いと言えます。「欧米文化が世界の最先端に位置しており、他の社会の文化はそこに向かって進化途上である」といった考え方ですね。いまのpost-modernな人類学ではあくまで相対主義に徹します。

2についてですが、上に書きましたように、そもそも何を持って「実力」とするかがその社会ごとに違う以上、何をもって「合理的」とするかも違います。あたかもアングロ・サクソン文化的な「実力」をユニバーサルな「実力」であるかのごとく振りかざし、それが通用しない日本社会を批判するのは、上で述べたpre-modernな文化観に縛られた考え方ではないかと思います。相対主義に徹して考えますと、日本も欧米も、それぞれの価値観や枠組みのなかで同じくらい「合理的」といえます。それぞれ暗黙の約束事があり、それに準じていることが「合理的」なのです。そして「暗黙の約束事に鈍いような人間」というのはどちらの社会でも弾き出されます。その点においても同じくらい「合理的」です。

文化の相対論については、お時間があれば
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-07-31-1
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-07-31-2
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-07-31-2
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1
もご参照ください。
by しょちょう (2005-11-25 00:50) 

夜間飛行者

とてもご丁寧なお返事、ありがとうございました。
たいへん勉強になりました。
しょちょうさんのスタンスについても、納得いたしました。

文化相対主義的な見方はとても重要だと思うし、僕もおおむね賛成なのですよ。
日本文化と西洋文化の優劣の比較なんて、僕だってナンセンスだと思っています。
だから、「この西洋かぶれ! 白欧主義者!」とか言われると、僕もつらい(笑)

ただ、目的を「非常に」狭いところまで絞り込めば、その目的を達成するための手段として優劣がつく場合はありますよね?
たとえば、「東京から大阪までできるだけ短時間で移動したい」みたいに、めちゃくちゃ狭く絞り込めば、飛行機の旅と徒歩の旅の優劣はつく。
もちろん、「快適に移動したい」とかになれば、優劣はかなり怪しくなってくるし、「移動を含めた人生そのものを豊かに生きたい」とかになってくると、もう優劣をつけること自体がナンセンスになるでしょう。
何が言いたいかと言うと、相対主義というのはとても重要な見方だけど、目的というものをどれだけ広く(あるいは狭く)とらえるかに応じて、その妥当性も変わりうるんじゃないか、ということです。

> そもそも何を持って「実力」とするかがその社会ごとに違う以上、
> 何をもって「合理的」とするかも違います。
についてですが、
たしかに、「社会の中を生きる人間としての実力」ということであれば、欧米式の判定基準と日本式のそれのどちらが優れているかなんて決められませんよね。
それはそのとおりだと思います。
(このあたり、たしかに僕の前の方のコメントには混乱がありました)

しかし、今回そもそも問題になったのは、博士論文審議会のやり方についてでした。
とすると、ここでは、目的はもう少し狭くなって、たとえば
「学問的に十分なバックグラウンドを持ち、独創的な見解を示し、これからもその分野に学問的に貢献するであろう人間を選びたい」
みたいに絞り込めるかもしれない。
そうすると、
1.欧米式の一発勝負
2.日本式の根回し
3.上の方のコメントで書いた修正案
の優劣もある程度つけられるのではないか、などと思わないでもありません。
まあ、無理かな(笑)
でも、博士論文の審議に暗黙の了解として根回しが必要になるっていうのはなあ・・・
「根回し程度もできないやつは、学者社会の中でうまく渡っていけないから、学者としても大成しない」
ということで、方法として有用なのかもしれませんが・・・
やっぱり、違和感をぬぐうことができないんですよね。
少なくとも、部外者の立場から違和感を表明することだけは許してください!(笑)

ただですね、相対主義という道具は非常に強力ですが、
強力なだけに、副作用も強いように思うんですよ。
もっとも深刻な副作用は、ニヒリズムでしょうか。
「すべてのことは相対的で、善悪の基準なんてないんだから、何やっても同じさ」みたいな。
もちろん、しょちょうさんがニヒリズムに堕していると言っているわけでは全くありません。一般論として、ということです。(当たり前ですが、念のため)
僕は、基本的には相対主義を受け入れた上で、場面場面に応じて、相対主義の妥当性の高低を見極めたくなる傾向があるのかもしれません。
ええ、ええ、どうぞ「pre-modern」な奴と言ってくださいまし(笑)
by 夜間飛行者 (2005-11-25 06:21) 

しょちょう

夜間飛行者さん
三度、御意見ありがとうございます。ここまでお付き合いいただいたのは過去においてもAaさんと夜間飛行者さんだけです。とても感謝いたします。

さて、議論のポイントが再びシフトしたようなのでいただいた御意見を整理しますと:
1 単一の定量化できるアウトカム(移動時間など)に関していうと、その目的の優劣を競うことができる、したがって文化や風習にも優劣をつけることができる。
2 博士論文の審査会という事例においても、日本式と西洋式で優劣をつけることができる
3 文化相対主義に徹することはニヒリズムに陥る傾向がある

ということでよろしいですね?

さて、 1についてですが、全体のバランスを無視して単一の結果変数に焦点を絞り、それに関して2つの方法論の優劣を競うことは可能です。ただ、それをすることにどれほどの意味があるのかはまた別な問題になります。例えば、「意思決定までのスピード」という変数に関してのみいえば、欧米的な会議での一発勝負のほうが日本的な根回しよりも優れていると言えます。ただし「決定事項を実行するスピード」という別の変数に関して見てみると、日本的なやり方のほうが速いと考えられています。これは企業での意思決定プロセスについて調べた人類学的調査の結果からも示されています。日本式ではすでに全員の間で合意がシェアされているので、いったん決まったことには異を唱えずに実行するからだという説明がなされています。
結局のところ、ある単一のアウトカムに注目すれば別のアウトカムが切り捨てられることになるので、全体のバランスについて考える必要があります。そうすると、「文化」といった大きな枠組みのものの優劣などはとうていつけられないということになります。

2についてですが、これはあくまで僕が自己体験にもとづいて挙げた一事例にすぎないので、これだけをもって和式がいいとか洋式がいいとかいうのはあまり本質的ではないように思うのですが、それでもあえてこの事例に固執して考えますと、僕はやはりどちらのやり方が優れているとは言えないと考えます。
日本の某医大では根回しが必要条件になっており、英国の某大学では審査会のときに「見せ付けるパフォーマンス」が必要条件になっている。どちらも「独創性、学問的貢献」などとは直接関係ないものです。優劣はつけられません。そもそも「学位審査」というものは「移動時間」などのように定量化できる単純な変数ではありません。

3についてですが、相対主義が何も生まないというのはまさにその通りです。逆にessentialism(絶対主義?)やeurocentrism(欧州中心主義)が戦争や植民地化などの多くの悲劇や過ちを起こしたこともまた真実です。
僕は文化に関しては優劣はつけられないと信じています。ただ、その社会がなんらかの問題に直面したときに、異文化から何かを輸入してそれを自分の中で同化していくことはありうると思っていますし、現にそのプロセスはそこかしこで起こっています。アメリカの企業がトヨタの「看板方式」を導入して生産効率を上げたり、日本の企業がアメリカ式経営を取り入れたりといった具合にです。つまりその時代、その時代にあった文化のありかたというのが存在するので、社会はそのように変遷していきます。優劣はつけられないが、変化はする、というのが僕の考えです。

今回の議論にひとつ大事なポイントを付け加えますと、こういう議論で相手を完膚なきまでに打ちのめすのがアメリカ的(特にユダヤ系的)な「できる人、実力のある人」です。正直、根回しもあまり気持ちのいいもんではありませんが、こういう欧米的な方法論もどうなのかなと思います。やれと言われればやりますけれども・・・・。
by しょちょう (2005-11-25 12:18) 

夜間飛行者

いくつかコメントをつけさせてもらいますね。
まず、しょちょうさんのまとめについてですが、

>3 文化相対主義に徹することはニヒリズムに陥る傾向がある

これは、その通りです。

>2 博士論文の審査会という事例においても、日本式と西洋式で
>優劣をつけることができる

もし、日本の「ほとんどの」大学の博士論文審議会で根回しが必要なのであれば、「日本式」と一つにくくれると思いますが、
博士論文審議会に根回しが必要なのは、おそらく日本でもごく一部だと思います。
だから、正確に言えば、博士論文審議会に根回しの必要なしょちょうさんの母校のやり方について、「うーむ・・・」という微妙な感想をもっている、
ということです。
(その部分についてだけですよ。もちろん)

>1 単一の定量化できるアウトカム(移動時間など)に関していうと、
>その目的の優劣を競うことができる、したがって文化や風習にも
>優劣をつけることができる。

ここは、大きく違うわけではないけど、ちょっと違うかもしれません。
個々の事例と目的に応じて、どれだけ優劣の判断ができるかということも変わり、それはスペクトラムのような連続体をなしているのではないか、と思います。
一方の極に、総体としての日本文化と西洋文化みたいな、とうてい優劣の比べようのないものがある。他方の極に、「大阪までできるだけ短時間で移動したい」みたいなのがある。
しょちょうさんは「定量化できるかどうか」を強調されますが、そこはそんなに強調しなくてもいいんじゃないかなあ、と思うんですよ。
定量化できない事例であっても、有意義な議論はできると思うので(定量化できないだけに、確定的な決着はつかないでしょうが)。
で、「博士論文の審議」ということに話を限定すれば、この事例は、上のスペクトラムの中でも、真ん中へんの微妙なあたりに位置するんじゃないか、と思ったのです。
だから、「定量化できないから、即、比較の意味なし!」ということにはならないと思っています。

>ただ、その社会がなんらかの問題に直面したときに、異文化から何かを
>輸入してそれを自分の中で同化していくことはありうると思っています
>つまりその時代、その時代にあった文化のありかたというのが存在する
>ので、社会はそのように変遷していきます。優劣はつけられないが、
>変化はする、というのが僕の考えです。

ここは、すごく同意します。
で、僕としては、
・欧米式一発勝負のフェアさを維持したまま、十分な準備期間を導入するなどして、一発勝負のリスクを避ける方向に変化させる
・日本の某医大式の根回しの良さを維持したまま、根回し独特の不透明さを払拭する方向に変化させる
みたいなことになればいいなあ、などと思うわけです。
そんなものは変化するようにしか変化しないんだから、無理に変化させようとしたり、変化そのものをメタの視点から評価することなんてできないんだよ、
と言われれば、僕はとりあえず引き下がります。
ここで強弁することに意味があるとは思えないので。

>相手を完膚なきまでに打ちのめす...
>やれと言われればやりますけれども・・・・。

ちょっと物騒ですね(笑)
僕としては、プレゼンテーションに対する質疑応答みたいに考えていました。
しょちょうさんもご存知の通り、学会発表の質疑応答って、とんちんかんな質問も多いですよね?(笑)
質問を発する時点では、質問者自身も質問の意図がよくわかっていないことが多い。
で、応答を繰り返すうちに質問の意図も明らかになってきて、質問者は「よくわかりました。ありがとうございました」と言って座る。
だから、ここで利益を得ているのは、基本的には、質問者です。
そして、その質問が発表者にとって少しでも有益であれば、質問者としてもうれしい。
そんな感じで考えています。
by 夜間飛行者 (2005-11-25 21:00) 

しょちょう

だいたい一段落したようですね。
またいつでもコメントしてくださいね。
by しょちょう (2005-11-25 23:40) 

gocito

アメリカで研究する人類学学徒としてコメントを。

根回しはアメリカにもあります。アメリカの中西部の大学に提出した僕の修士論文は根回し的なやり方で審査されました。一発勝負なんてありえません。また、極端なえこひいきも間々見受けられます。感情的に「アンフェアだ」と感じることだって少なくありません。

人々が文化を論じるとき、行ったことのない、暮らしたことのない国についてあたかもすべて知っているかのような話し振りをするのはよくあることです。こう言う僕だって中西部のある小さな町のことしか知りません。

また、実力の評価や意思決定の仕方をアメリカとか日本とか大きな枠組みで括ったって、さらにそれぞれにおける地域性がありますからね。かといって突き詰めていくと、結局は各個人に行き当たってしまい、文化論としての最初の目的を見失います。

夜間飛行者さんのおっしゃられることは感情的に分かる気がしますが、人類学的な議論をしてようとされているしょちょうさんと噛み合うことはないと思います。

大げさな言い方をすれば、人類学者は日々己と戦っています。この感情・考えはどういったコンテクストに基づくものなのか、云々。日ごろあまり意識しない感情の整理をできるという意味で人類学はとてもよい学問だと思います。小学校では「道徳」の時間をなくして人類学を教えればいいんじゃないかと思うほどです。

post-modernの今、文化を考える上での前提ではあるが、あまりプロダクティブではない、と文化相対主義的な考え方に嫌気が差した一部の人類学者はかつての進化論的な走ったりもしています。まさに「時代は回る」です。しかし単なる堂々巡りではなく、確実に進歩しています。

とにかく人類学はお勧めです。
by gocito (2005-11-26 19:07) 

NO NAME

誤:進化論的な走ったりもしています

正:進化論的な理論的枠組みに走ったりもしています
by NO NAME (2005-11-26 19:10) 

しょちょう

gocitoさん
ご意見ありがとうございます。まさにおっしゃるとおりだと思います。
人類学を専門に学んだことのない一般の人たちにどうやって人類学を分かりやすく伝えるかというのは僕にとって永遠の課題になると思います。今回の議論を見ていただくとわかるように、僕は人類学の業界ではいまや時代おくれとなったベネディクト風の「pattern of culture」をあえて使ってみたり、極端な相対主義を取ってみたりと学問的な厳密性をあえて無視して論を展開しています。それは一般の方たちに理解可能なかたちで人類学の面白さを伝えるには「文化」というものに対する自分のスタンスをはっきりさせる必要があると思っているからです。われわれ人類学徒は人類学の業界内で起こった文化理論の変遷をそれこそボアスの時代から学ぶわけですが、それらのどれを自分自身の足場にするのかある程度明確にしないと素人の方に「これが人類学だ」と示すのは難しいように思います。
おっしゃるようにまさに人類学者は己と戦っていますし、人類学という学問自体がある意味アイデンティティーの危機を抱えているわけですが、過去の人類学者が残した知の蓄積は人類の財産であり、ともすれば文化というものを感情的に捉えがちな我々人間に光明を与えてくれる大事なツールだと思います。それゆえに、人類学内部の難しい問題は抜きにして、わかりやすく人類学を伝えていければと思います。
とはいえ、本職は医者なので、できればプロの方にやっていただきたいです。笑
by しょちょう (2005-11-26 22:06) 

夜間飛行者

gocitoさん
コメント、興味深く拝読しました。

>post-modernの今、文化を考える上での前提ではあるが、
>あまりプロダクティブではない、と文化相対主義的な考え方に
>嫌気が差した一部の人類学者はかつての進化論的な走ったりもしています。>まさに「時代は回る」です。しかし単なる堂々巡りではなく、
>確実に進歩しています。

これを読んで、安心、というか納得しました。
自文化中心主義の克服、っていうのはすごく大事だと思うんです。
でも、逆に文化相対主義が行き過ぎたら、そりゃ生産的じゃなくなるだろうな、とも思います。
もしお互いの概念枠が完全に共約不可能なら、
そもそも話さえも通じないかもしれないし、
相手が意味ある、理解可能なことをしゃべっているということさえも
言えなくなるんじゃないか?
(↑話を簡単にするために、極端に単純化してます)
こういうのは、ごく健全な反応だと思うのですが、
そういうことも含めて、人類学者は日々たたかっているのよ、
みたいなことがなんとなくわかりました。

で、人類学の中で、かつてのアプローチに戻る人が出てきたからといって、
文化相対主義的な視点が無駄だったかというと、そんなことは全くない、
という点も、完全に同意します。
学問は「らせん的に」進歩する、という感じでしょうかね。
by 夜間飛行者 (2005-11-27 22:51) 

huwatorohooku


 「根回し」という言葉を久しぶりに聞いた気がします。なんだか悪い言葉に思えますが善悪ではなく、TPOで共感が得られるかどうかが変わってくる。これは僕が今まで持ったことのない考え方でした。とても勉強になるお話ありがとうございます(^-^)。
by huwatorohooku (2010-02-27 09:31) 

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